[[足利家]]~
[[山城武将一覧]]
*足利義輝 [#df09b085]
#ref(kao_yoshiteru.JPG);

**レベル:数 [#ifa14e69]
80:7

**職業 [#f07a2838]
侍

**配置 [#w7adce69]
本陣総大将

**戦闘開始時セリフ [#j9c6c15d]
#ref(足利義輝台詞1.JPG)

 ○○○○よ。
 そこまでして室町幕府を
 倒したいか。何を目指す?

 おかしいか?
 征夷大将軍たるこの義輝が、
 自ら剣を抜く時代なのだよ。

 幾千もの戦いを乗り越えて
 きたこの義輝をなめるなッ

**構成 [#kf6c56ad]
|>|>|CENTER:|||c
|~名前|~職業|~レベル|~初期付与|~使用技|
|足利義輝|刀侍|80|[[不動]]|[[獅子奮迅]]、[[剛鬼突]]、[[逆袈裟切り]]、[[武運長久]]、[[沈黙の霧・壱]]、[[蘇生・壱]]、[[反撃回避>反撃回避(武将)]]、一刀流、守護術、闘魂術|
|三淵藤英|鉄砲鍛冶|75||[[小つるべ撃ち]]、[[二段砲撃]]、[[爆裂砲火・改]]、[[陽動・改]]、[[罵倒]]、[[警護一新]]、守護術|
|等持院住持|棍棒僧|75|反射結界、[[妖周天]]|[[完全回復]]、[[全体完全回復]]、[[大日如来秘法]]、[[僧兵連撃・改]]、[[閻魔撃・弐]]、[[業火法輪・参]]、[[氷華法輪・参]]、[[焦熱呪・参]]、[[鉢特摩呪・参]]、[[羅刹浄天・改]]、[[八葉の蓮華]]、[[全体蓮華]]、[[因果応報]]|
|細川持隆|懐剣陰陽|75|結界、[[妖周天]]|[[虚空]]、[[雷の法剣]]、[[渦雷・参]]等単体術、[[雷滅・参]]等全体術、[[森羅天翔・改]]、[[気合呪霧・参]]、[[沈黙の霧・壱]]、[[結界・四]]|
|大館晴光|剣神主|75|反射結界、[[妖周天]]|[[詠唱の韻・極]]、[[明神閃・極]]、[[天神撃・参]]、[[神代の風・参]]、[[神代の雷・参]]、[[子守歌]]、[[神の加護・四]]|
|三刀流精鋭|懐剣二刀忍者|75||[[三日月斬]]、[[奪命二>連斬]]〜[[五連>奪命五連]]、[[瞬殺閃・弐]]、[[戦慄の黒荊]]、[[結界破り・荊]]、[[呪殺閃・弐]]、[[神力両断・改]]、各種[[上遁術・参>嵐遁の術・参]]、[[全体看破・弐]]|
|鞍馬大山伏|槍薬師|75|再生、[[妖周天]]|[[完全治療]]、[[全体完全治療]]、[[蘇生・壱]]、[[刹雷・弐]]、[[災禍の雷・参]]、[[凶風・伍]]、[[禍因の風・参]]、[[全体救護・弐]]、[[歴戦の治癒]]、[[全体治癒]]、[[裏鬼門]]、[[荒行]]|

**部隊アイテム [#y0285a67]
-所属不可

**ドロップアイテム [#l6ea7dfb]
-[[鬼丸]]

**特徴 [#m776267c]
-獅子奮迅は強力な5連撃。闘魂状態では極み最大鍛冶も一撃
-剛鬼突は強力な鬼突。準備なし。
-1は一切挑発技能を使用しない。逆袈裟切りと固有物理技能、沈黙の霧等のみ使う。
-1の攻撃にはランダムで所持武器の特殊効果が乗ることがある
-2の小つるべ撃ちは陣営・耐性等無しで全体5500〜6500程度。気合削りと確率麻痺付き
-4の単体術は5000前後。5の天神撃は物理+術ダメージ2500前後。

**列伝 [#d946b6c0]
:足利義輝|
父は室町幕府第十二代将軍であった足利義晴。母は近衛尚通の娘として生まれる。幼名は菊童丸。妻は近衛稙家の娘。弟に後に十五代将軍となった[[足利義昭]]がいる。~
~
父・義晴は当時、管領として幕政を牛耳っていた[[細川晴元]]と対立し、[[京都]]を追われていた。そのような最中の1546年に、義輝はわずか十一歳にして、父から将軍職を譲られることになる。このときの将軍就任式は、[[近江]]坂本で行なわれた。~
~
将軍就任からまもなく、義晴は[[細川晴元]]と和睦して[[京都]]に戻った。しかし、今度は[[晴元>細川晴元]]の家臣である[[三好長慶]]が[[晴元>細川晴元]]を裏切って細川氏綱に味方し、畿内に一大政権を築き上げたのである。このため、足利義晴・義輝父子は[[細川晴元]]とともに[[京都]]を再び追われて[[近江]]に逃亡した。そして1550年、義輝の父・義晴は[[近江]]にて死去している。~
~
1552年、義輝は[[三好長慶]]と和睦して[[京都]]に戻った。しかし翌年から[[細川晴元]]と協力して[[長慶>三好長慶]]と戦いを始める。一時期は[[六角義賢>六角承禎]]の支援を受けた義輝側が優勢であったが、1558年に[[三好長慶]]の猛反攻を受けて[[京都]]から追われている。しかし、[[長慶>三好長慶]]も将軍殺しの汚名を着ることを嫌い、戦いに勝利した後、義輝に和睦を申し出ている。これにより義輝は[[京都]]に戻ることはできたが、[[長慶>三好長慶]]は幕府の御相判衆として幕政の実権を牛耳ることとなったので、義輝は傀儡将軍にすぎなかったのである。~
~
義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指して、精力的な政治活動を行なっている。[[武田信玄]]と[[上杉謙信]]、島津貴久と[[大友宗麟]]、毛利元就と尼子晴久などの抗争の調停を頻繁に行なって、諸大名に将軍の存在を知らしめたのである。さらに自分の名である『輝』の字を[[毛利輝元]]などの諸大名に与えたりもしている。このような経緯から、義輝は将軍として諸大名から認められるようになり、[[織田信長]]や[[上杉謙信]]などは上洛して義輝と会見しているほどである。義輝の政治活動は、わずかとはいえ将軍権威を復活させたのである。~
~
1564年、幕政を牛耳っていた[[長慶>三好長慶]]が病死した。このため義輝は、いよいよ幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。しかし、[[長慶>三好長慶]]の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた[[松永久秀]]と三好三人衆にとっては、そのような義輝は邪魔な存在である。このため、[[久秀>松永久秀]]と三人衆は義輝を排除して、義輝の従兄弟(父の兄弟)に当たる足利義栄を傀儡として擁立しようと企んだ。~
~
1565年、[[久秀>松永久秀]]と三好三人衆、そして[[三好義継>三好長慶]]([[長慶>三好長慶]]の養嗣子はついに反乱を起こした。義輝の居城である二条御所に軍勢を率いて襲撃したのである。義輝は[[上泉信綱]]に教えを受け、[[塚原卜伝]]に奥義の伝授を受けた剣豪将軍であったため、秘蔵の太刀をもって敵兵を多数、斬り殺したという。しかし衆寡敵せず、最後は[[三好>三好家]]勢によって殺害された。このとき、義輝の生母である慶寿院も殉死している。~
~
義輝は剣豪将軍と呼ばれた。義輝は[[塚原卜伝]]からの指導を受け、歴代征夷大将軍の中でも最も武術の優れた人物として評価されている。[[松永久秀]]らの二条御所襲撃の際も刀を数本畳にさして自ら戦ったと伝えられる。~
そのためか、室町幕府の歴代将軍の中でも特に覇気が溢れ、武士らしい将軍と讃えられている。そして義輝の政治活動により、一時的とはいえ将軍権威が復活したことにおいてはその能力を評価できるかもしれない。しかし、暗殺されたことにより、将軍としての権威は地に堕ちることとなった。義輝の辞世の句にも、野心と無念が強くにじみ出ていることがうかがえる。~
~
法名:光源院融山道圓~
辞世の句「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」~

:三淵藤英|

:細川持隆|

:大館晴光|

**その他情報 [#l27478fa]
- 剛鬼突開幕即飛んできて、防御400で2800ダメ即死 -- [[ライライ]] &new{2007-06-25 (月) 20:21:45};
- 義輝 -- [[編成が変わってます。②の忍のとこが⑥の鍛冶屋と入れ替わってます]] &new{2007-10-18 (木) 22:05:37};
- 足利義輝は2の忍者と6の鉄砲鍛冶屋が入れ替わってます。 -- [[雑賀衆]] &new{2007-10-19 (金) 10:36:08};
- お供68になってたので修正しました --  &new{2007-11-06 (火) 20:56:01};
- 3の僧に仁王と金剛あり --  &new{2009-09-19 (土) 18:22:20};

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