豊臣秀次
の履歴(No.1)
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豊臣秀次
へ行く。
1 (2026-04-01 (水) 06:25:13)
【
独眼竜の野望
】
豊臣秀次
†
↑
レベル:数
†
67:5
↑
戦闘開始時セリフ
†
僕だって、僕だって、 戦える!
↑
構成
†
名前
職業
レベル
初期付与
使用技
豊臣秀次
刀薬師
67
▲
術結界
瞬雷
、
凶風
、
難治撃
、
沈黙の霧・壱
、
攻撃呪霧・四
、
防御呪霧・四
田中吉次
二刀侍
62
▲
一所懸命・極
、
全体看破・弐
一柳直末
弓神主
62
▲
▲
▲
点破
、
三連射
徳永寿昌
錫杖陰陽
62
結界 術結界
結界・四
、
氷晶
最上駒姫
刀忍者
62
▲
五連撃
、
全体看破
、
破紋両断
↑
生息地域
†
小田原の陣
↑
ドロップアイテム
†
秀次討取の証
↑
備考
†
↑
列伝
†
豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)
1568-1595
豊臣秀吉
の甥。
はじめ
宮部継潤
に、次いで
三好康長
に養子として送り込まれる。
秀吉台頭後は数少ない縁者として重用された。
1584年の
小牧
・長久手の戦いでは
徳川軍
の奇襲を受けて惨敗し、舅である
池田恒興
や
森長可
らを失い、敗走する。
その後の
紀伊
雑賀
攻め、四国攻め、
小田原の陣
、葛西・大崎一揆、九戸政実の乱鎮圧では武功を挙げた。
四国攻め後は
近江
国蒲生郡八幡山城43万石を、
小田原の陣
後は
織田信雄
旧領の
尾張
国・
伊勢
国などに100万石を与えられ、善政を布いたと言われる。
1591年、秀吉の嫡男・鶴松が死去すると、秀吉の養子となり、関白に就任。主に内政面で活躍した。
1593年、豊臣秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになり、1595年には高野山に追放され、出家した。同年、出家の身でありながら切腹を命じられ、青巌寺にて死去。享年28。
死後、秀次の一族や家臣の多くが粛清され、豊臣政権内外に大きな禍根を残した。
田中吉次(たなか よしつぐ)
生年不詳-1617
田中吉政
の長男。
はじめ馬廻として
豊臣秀吉
に仕え、父・吉政が豊臣秀次の老臣筆頭に任ぜられると、秀次に仕え、一字を拝領して吉次と名乗った。
関ヶ原合戦
では父と共に東軍に参陣したが、後に父と不和になり廃嫡される。その後許されることなく
京都
で病没。
一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)
1546-1590 豊臣家臣。
秀吉古参の家臣であり、各地を転戦して武功を挙げ、黄母衣衆となった。
1585年には
田中吉政
・中村一氏・堀尾吉晴・
山内一豊
らとともに豊臣秀次の宿老に任命される。
小田原の陣
に参加し、その緒戦である伊豆国山中城攻めで戦死。
徳永寿昌(とくなが ながまさ)
1549-1612 はじめ
柴田勝豊
に仕え、
賤ヶ岳
の戦後は秀吉家臣となった。
秀吉没後、朝鮮に在陣していた日本軍へ撤兵を伝える使者を務めている。
関ヶ原の戦いでは東軍に与し、高須城や駒野城を攻略。戦後は、
本多正信
や
大久保忠隣
らとともに、諸大名の戦功を調べる役目を務めた。
最上駒姫(もがみ こまひめ)
1581-1595
最上義光
の娘。豊臣秀次の側室。伊達政宗の従妹に当たる。
東国一の美少女と名高く、駒姫の噂を聞いた豊臣秀次は、側室に差し出すよう義光に迫った。義光は度重なる要求に折れ、十五歳になったら娘を京へと嫁がせると約束する。
1595年、駒姫は京に到着したが、その直後、秀次は
豊臣秀吉
の命により切腹させられてしまう。父・義光の助命嘆願も間に合わず、三条河原で処刑された。享年15。
この事件により義光は反豊臣急先鋒となり、関ヶ原の戦いで東軍に属したという説もある。
↑
その他情報
†
1は薬師タイプです --
2011-05-17 (火) 17:24:00
7は忍者 --
2011-05-17 (火) 17:24:19
↑ミス 7じゃなくて5 --
2011-05-17 (火) 17:24:39
秀次の前に赤N2体いますが、lv64↑なら片側だけ倒せば秀次までいけます。 --
2011-07-02 (土) 07:43:19