独眼竜の野望

豊臣秀次

レベル:数

67:5

戦闘開始時セリフ

僕だって、僕だって、
戦える!

構成

名前職業レベル初期付与使用技
豊臣秀次刀薬師67術結界瞬雷凶風難治撃沈黙の霧・壱攻撃呪霧・四防御呪霧・四
田中吉次二刀侍62一所懸命・極全体看破・弐
一柳直末弓神主62点破三連射
徳永寿昌錫杖陰陽62結界 術結界結界・四氷晶
最上駒姫刀忍者62五連撃全体看破破紋両断

生息地域

ドロップアイテム

備考

列伝

豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)
1568-1595 豊臣秀吉の甥。
はじめ宮部継潤に、次いで三好康長に養子として送り込まれる。
秀吉台頭後は数少ない縁者として重用された。
1584年の小牧・長久手の戦いでは徳川軍の奇襲を受けて惨敗し、舅である池田恒興森長可らを失い、敗走する。
その後の紀伊雑賀攻め、四国攻め、小田原の陣、葛西・大崎一揆、九戸政実の乱鎮圧では武功を挙げた。
四国攻め後は近江国蒲生郡八幡山城43万石を、小田原の陣後は織田信雄旧領の尾張国・伊勢国などに100万石を与えられ、善政を布いたと言われる。
1591年、秀吉の嫡男・鶴松が死去すると、秀吉の養子となり、関白に就任。主に内政面で活躍した。
1593年、豊臣秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになり、1595年には高野山に追放され、出家した。同年、出家の身でありながら切腹を命じられ、青巌寺にて死去。享年28。
死後、秀次の一族や家臣の多くが粛清され、豊臣政権内外に大きな禍根を残した。
田中吉次(たなか よしつぐ)
生年不詳-1617 田中吉政の長男。
はじめ馬廻として豊臣秀吉に仕え、父・吉政が豊臣秀次の老臣筆頭に任ぜられると、秀次に仕え、一字を拝領して吉次と名乗った。
関ヶ原合戦では父と共に東軍に参陣したが、後に父と不和になり廃嫡される。その後許されることなく京都で病没。
一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)
1546-1590 豊臣家臣。
秀吉古参の家臣であり、各地を転戦して武功を挙げ、黄母衣衆となった。
1585年には田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らとともに豊臣秀次の宿老に任命される。
小田原の陣に参加し、その緒戦である伊豆国山中城攻めで戦死。
徳永寿昌(とくなが ながまさ)
1549-1612 はじめ柴田勝豊に仕え、賤ヶ岳の戦後は秀吉家臣となった。
秀吉没後、朝鮮に在陣していた日本軍へ撤兵を伝える使者を務めている。
関ヶ原の戦いでは東軍に与し、高須城や駒野城を攻略。戦後は、本多正信大久保忠隣らとともに、諸大名の戦功を調べる役目を務めた。
最上駒姫(もがみ こまひめ)
1581-1595 最上義光の娘。豊臣秀次の側室。伊達政宗の従妹に当たる。
東国一の美少女と名高く、駒姫の噂を聞いた豊臣秀次は、側室に差し出すよう義光に迫った。義光は度重なる要求に折れ、十五歳になったら娘を京へと嫁がせると約束する。
1595年、駒姫は京に到着したが、その直後、秀次は豊臣秀吉の命により切腹させられてしまう。父・義光の助命嘆願も間に合わず、三条河原で処刑された。享年15。
この事件により義光は反豊臣急先鋒となり、関ヶ原の戦いで東軍に属したという説もある。

その他情報


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