【独眼竜の野望】
小早川秀秋†
レベル:数†
生息地域†
戦闘開始時セリフ†
黙れ! ぼ、僕は裏切り者じ
ゃない! しょうがなかった
んだよ……!
- 背信の離反
- 自身の生命を9000前後回復し、通常動作可能な隠れ身状態となる。
- 23は初期で守護発動率アイコン(警護術極意相当)が点灯しているが、発動条件の関係から守護しない場合もある。
14の単体術が36の砲撃と合わさって非常に強烈なため、軽減は必須。1は妖周天があり、4は星辰法の頻度が高い為、軽減は効果が無いことが多い。
ドロップアイテム†
- 小早川秀秋(こばやかわ ひであき)
- 1582-1602 木下家定の五男。高台院(おね)の甥にあたる。通称の「金吾」は秀秋の官職である左衛門督の唐名「執金吾」による。
1585年、叔父の羽柴秀吉の養子になり、1594年には、秀吉の命により小早川隆景と養子縁組し、以後小早川氏を称するようになる。
関ヶ原の戦いでは当初、西軍として伏見城の戦いに参加した後、本戦では関ヶ原の南西にある松尾山に布陣した。当初は傍観を続けたが、最終的には徳川家康の催促に応じ、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。大谷勢は平塚為広・戸田勝成らが小早川勢をよく食い止めたが、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの相次ぐ離反を受け、大谷隊は壊滅。これにより大勢は決し、西軍は壊滅した。
なお、秀秋の離反については、家老の稲葉正成・平岡頼勝と東軍の黒田長政が中心となって工作が行われていたとされる。
戦後、岡山藩55万石に加増移封されたが、1602年に早世した。享年21。
- 稲葉正成(いなば まさなり)
- 1571-1628 稲葉一鉄の子・重通の婿養子。継室の福(春日局)は著名。
はじめ豊臣秀吉に仕え、次いで小早川秀秋の家老となる。
関ヶ原の戦いでは平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らせる事に成功した。
戦後は秀秋と対立し美濃に蟄居、秀秋の死後は浪人となる。
1604年、徳川家光の乳母募集に妻の福が採用されると、福と離縁する。
その後、正成は家康に召し出され、家康の孫・松平忠昌の家老となった。
- 杉原重政(すぎはら しげまさ)
- 生年不詳-1602? 小早川秀秋に仕え、藩政の補佐に当たった。稲葉正成とともに秀秋を諫言するも逆に怒りを買い、上意討ちにされた。
- 平岡頼勝(ひらおか よりかつ)
- 1560-1607 豊臣家臣。正室は黒田如水の姪。
はじめ豊臣秀吉に仕え、次いで小早川秀秋の家老となった。義理の従兄弟である黒田長政とは懇意であり、関ヶ原の戦いでは長政と通じ、稲葉正成と共に秀秋に東軍に寝返ることを勧めた。
戦後、家臣の多くが出奔する中で、最後まで秀秋に忠義を尽くした。秀秋死後は徳川家康に仕え、美濃徳野を与えられた。
- 奥平貞治(おくだいら さだはる)
- 生年不詳-1600 奥平貞能の弟。
1573年、奥平氏は武田勝頼から離反し、徳川家康への再属を決断する。貞治は兄・貞能を支持し、亀山城出奔に随従した。
貞治は貞能の嫡子・奥平信昌とともに長篠城の守備にあたり、1575年の長篠の戦いでは、寡兵ながら武田軍に対し善戦した。
1586年、家康と豊臣秀吉の対面に御供した際に、秀吉から家臣として所望され、秀吉の黄母衣衆となる。
1600年の関ヶ原本戦では、戦前東軍への内応を約束していた小早川秀秋の軍監に付けられた。小早川隊の先鋒を務めた松野主馬が主君の裏切り行為に納得できず、戦線を離脱したため、貞治は松野隊を代わりに率いて西軍大谷吉継を強襲する。最終的に大谷隊の撃破に成功するも、貞治は戦闘中に致命傷を負ってしまい、まもなく死去した。
- 大久保猪之助(おおくぼいのすけ)
- 黒田長政家臣。関ヶ原の戦いでは、東軍への内応を約束していた小早川秀秋の軍監に付けられ、奥平貞治とともに小早川勢の監視にあたった。
コメント†
- 士士芸道陣通暗で、231465で突破。1が隠れ身して、術飛ばしてくるので、注意です。 --
- 連射は速射の間違い? --
- 速射に修正しておきました。 --
- 1はよく準備してきます -- 萌黄忍
- 1の初期付与「妖周天」とは何でしょうか?アイコンの説明では「増幅効果」となっていますが。 --
- 永久周天の事です。 --
- 自動発動であり、戦闘中どこにも表示されない名称が使われているのは不思議ですね。 --
- 特殊状態の守護率上昇って言う表現に書き換えられてるけど警護術極意だったときの表現のがわかりやすいような?3回で消えるし。 --
- 効果は警護術極意と同等なので、改めて修正させてもらいます。 --
- 盾2アタ3詠回で問題ない。守護抜けアタが複数いれば1からいくのが楽 --
- あと、1の初手は準備が多い --