越後武将一覧

北条高広(キタジョウ タカヒロ)

レベル:数

65:7

職業

戦闘開始時セリフ

はっはっは! この高広に
怖いものなどありはしない!
さぁ、かかってくるがよい!
はっはっは、○○○!
今日こそはわしの太刀の
錆にしてくれるわ!

構成

名前職業レベル初期付与使用技
北条高広刀侍65越後流斬込連撃・改五連撃・改心頭滅却蘇生・壱、守護術
北条景広槍僧60蘇生・壱帰依後光
軒猿精鋭懐剣二刀忍者60蘇生・壱連撃五連撃神力両断・改瞬殺閃、各種遁術・極、霧散霧消、沈黙の霧
上杉方士精鋭懐剣陰陽60結界轟雷等各種陰陽道全体術
越後強弓衆弓神主60反射結界詠唱の韻・極三貴神射儀光雨三連射神雷神風
北信濃鍛冶衆鉄砲鍛冶60陽動、守護術
越後山伏錫杖薬師60再生

ドロップアイテム

特徴

備考

6/13レベルのみ変更

列伝

北条高広
北条広春の嫡子とされていたが近年は北条高定の子の説が浮上している。丹後守、安芸守。生年は不明。

北条氏は鎌倉幕府の大江広元を祖とする毛利氏の出自であるといわれている。安芸の毛利元就も同じ流れを祖とする。安田・北条の両方の姓をもっており、前代の広春の代まではどちらの家も同じ人物が当主を行っていた。

1530年ごろに広春が死亡すると高広は北条を継ぐ。一方の安田姓は景元が継いだ。1530年より始まった上条の乱では長尾側(後の上杉氏)に着き、北条城で上条定憲を筆頭とした上杉勢(山内上杉家)と激戦を展開する。このとき長尾家当主長尾為景は北条の奮戦に対する激励の書状を送っている。高広が北条城主となったのはこのころのようである。

1553年になると、武田信玄の北信濃への進撃が激化、反武田の筆頭であった村上義清長尾景虎(謙信)に救援を求める。これに対し景虎はすぐさま軍を川中島に派遣するが、このときは小競り合いのみで終わった。世に言う第1次川中島合戦である。
翌年信玄は高広に書状を送る。この書状は内応を促す書状であり、高広はこれに応じ、景虎に背く。しかしこれは同じ一族である安田景元によって景虎の知るところとなり、景虎みずからが兵を率いて北条城に出陣する。結局これに降る。このころから北条氏は完全に長尾家臣となる。

1559年には長尾藤景、柿崎景家斎藤朝信とともに政務奉行になっている。謀反を起こしてからわずか5年、相当早い表舞台への復帰である。同年景虎は2度目の上洛を果たすが、このとき北条高広の父(と思われる)高定が付き従っている。京から帰還後、高広は高定とともに景虎に太刀を献上している。

その後1560年に落城した上野厩橋城の城主となる。この城は沼田城などとともに上野の上杉勢にとって重要拠点であった。越後から上野などの北関東にでるには山を越えなければならないが、このとき謙信は山越えの後かならずこの城に立ち寄っている。安定して北関東出兵を行うには不可欠だったのである。
しかし1564年の武田進攻の際には謙信本隊の山越えが遅れ、武田氏と戦うために出陣する。
しかしその後上野には西から武田、南からは北条(ホウジョウの方なので注意。以後後北条)が迫り、ここにいたって上野の上杉側領主はいっせいに北条氏に寝返ってしまう。このときに北条高広も後北条に寝返る。
その後相越の関係が改善、高広も再度上杉へ帰順する。
1574年には子の景広に家督を譲り大胡に隠棲する。謙信の死後は仏門に入り安芸入道芳林を名乗った。この子景広は上杉二十五将の一人に数えられる猛将であった。
謙信の死後、上杉家は家督相続争い、いわゆる御館の乱が始まる。高広は上杉景虎を押す。しかしこの乱は相手の景勝側の勝利に終わる。高広は武田勝頼に身を寄せるがこれも織田家により滅亡、その後織田家臣滝川一益に帰順する。
その後彼は景勝と和解したようであるが結局一族の地である北条城への帰還はならず、1587年の書状を持って歴史から姿を消した。

2度の謀反の後も謙信に重用され、その武勇を愛された高広がなぜ謀反を起こしたのかは諸説ある。長尾上杉氏に心から服属していなかった、同族の安田景元への敵対心などをあげる人はいる。しかし彼の場合、謀反の計画性が乏しく、とくに1回目の謀反ではすぐに降伏している。謀反を起こしたのは彼が単純であったから、でいいように筆者は思う。単純で武勇に優れた人物、このあたりが謙信に愛されたのではなかったのではないのかと思う。

北条景広
高広の子。父と共に上杉家の関東方面の戦略を担い、鬼の名を戴くほどの勇を誇っていた。
上杉景勝上杉景虎の家督争いでは景虎を支持し、景勝方と各地で争うも討死。景勝からは景虎派の中心人物として恐れられていた。

その他情報


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