織田家
佐久間信盛†
レベル:数†
75:7
侍
戦闘開始時セリフ†
○○○○……?
あの有名な?! いや、
まさかこの貧相な奴が……。
○○○○!勝負だ!
織田家では二度の敗北は
許されぬのじゃ!
まったく我が殿にも困った
ものよ。家臣を道具のように
は!?お主聞いたか!?
ドロップアイテム†
- 佐久間信盛
- 織田家臣。信秀、信長と二代に仕えた人物。出羽介、右衛門尉。1528年の生まれとされる。
佐久間氏は三浦氏の一族が安房国狭隈(さくま)郷に寄ったのが始まりとされる。三浦氏は桓武平氏庶流であるため、佐久間も平氏に属しているとしていた。後に尾張国愛知郡御器所に移り、戦国時代に至る。
信盛は信長がまだ大うつけと考えられていたころに起きた信行との内部争いにおいて、柴田勝家らが信行側につく中、信長支持を貫いた。このことから信長に重用され家臣団でも高い地位を与えられる。その後も信長に一貫して従い、各地に従軍する。
しかし、信行方についていた柴田勝家、将軍家との縁で仕官した明智光秀、農民から成り上がってきた羽柴秀吉などの優秀な人材が家中に増えるにしたがってその地位は相対的に低下、また信長も信盛を次第に軽視していくようになる。
1573年に徳川家と武田家の間で起きた三方ヶ原の戦いでは、滝川一益らとともに援軍に赴くが、武田勢とは数の面からでも劣勢であり、ほとんど戦わずに撤退する(まともにぶつかった平手汎秀は討ち死に)。なお、後年追放された際にこのことも信長から追及されている(ただし、同じく早々に撤退した滝川一益はこのことについて何の叱責も受けていない)。
1576年からは本願寺の本拠地である石山本願寺(現大阪城)の攻略に着手するが、遅々として進まず、結局1580年に本願寺と織田家は和睦(実質的には本願寺の降伏)し、最後まで攻め落とすことは出来なかった。そのこともあり信長は佐久間信盛に19ヶ条の折檻状とよばれる徹底的なくしあげを行い、林秀貞らとともに追放した。その中身は先に言った三方ヶ原での撤退のほか、領地経営が悪い、戦働きもろくにしていないといった信盛自身の能力に対する非難に加え、羽柴秀吉や柴田勝家に比べて功績が少ない、とも非難されている。
その後は、信長に隠棲でもするように言われた高野山からも追い出され、あちこちをさまよった挙句1582年に紀伊にて死去した。
- 佐久間正勝
その他情報†